【優先権書類および技術常識等に基づき、優先権主張の効果を認めた事例】
投稿日:2026年4月30日 |
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著者:弁理士 今野 智介
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参照条文/キーワード/論点 |
パリ条約4条A項/特許法第29条の2第1項(拡大先願)/優先権/技術常識/過度の試行錯誤/実施例 |
ポイント
※ 本事件は、CRISPR/Cas9システムとして有名な「RNA依存性標的DNA修飾およびRNA依存性転写調節のための方法および組成物」に関する発明に係る特許出願について、パリ条約4条A項(1)により、複数の基礎出願のうち最先のもの(第1優先権基礎出願)に対する優先権主張が認められるか(第1優先権基礎出願による優先日よりも後、本件特許の出願日よりも前の期間内に優先日を有する2つの特許出願に基づく、拡大先願の無効理由が排斥されるか)が争われた、審決取消訴訟事件である。 |
判決概要 |
| 裁判所 | 知的財産高等裁判所第2部 |
| 判決言渡日 | 令和7年6月26日 |
| 事件番号 | 令和5年(行ケ)第10147号 |
| 事件名 | 審決取消訴訟事件 |
| 裁判長裁判官
裁判官 裁判官 |
清水 響
菊池 絵理 頼 晋一 |
事案の概要
<本件特許>
特許第6692856号「RNA依存性標的DNA修飾およびRNA依存性転写調節のための方法および組成物」
平成24年(2012年)5月25日:第1優先基礎出願(米国)による優先日(※本件優先日)
平成24年(2012年)10月19日:第2優先基礎出願(米国)による優先日
平成24年(2012年)10月23日:甲2(拡大先願の第2引例:PCT/KR2013/009488)の優先日
平成24年(2012年)12月12日:甲1(拡大先願の第1引例:PCT/US2013/074667)の優先日
平成25年(2013年)1月28日:第3優先基礎出願(米国)による優先日
平成25年(2013年)2月15日:第4優先基礎出願(米国)による優先日
平成25年(2013年)3月15日:本件特許に係る原出願(特願2015-514015号)の国際出願日
平成30年(2018年)5月21日:本件特許に係る出願(特願2018-97369号)の分割出願日
令和 2年(2020年)4月17日:本件特許の登録日
令和 4年(2022年)2月25日:無効審判(無効2022-800017号)の請求日
令和 5年(2023年)8月30日:当該無効審判の審決日(本件審決:請求不成立)
令和 5年(2023年)12月28日:当該審決に係る取消訴訟の提起日
<本件発明(請求項1のみ抜粋)>
【請求項1】
標的DNAを修飾する方法であって、
細胞内で該標的DNAを複合体と接触させることを含み、
該複合体は、
(a)Cas9ポリペプチド並びに
(b)DNA標的化RNAであって、
(i)該標的DNA内の配列に対して相補的なヌクレオチド配列を含むDNA標的化セグメント;および
(ii)前記Cas9ポリペプチドと相互作用するタンパク質結合セグメントであって、該タンパク質結合セグメントは、ハイブリダイズして二本鎖RNA(dsRNA)を形成する、2つの相補的な一続きのヌクレオチドを含み、前記dsRNAは、tracrRNAおよびCRISPRRNA(crRNA)の相補的ヌクレオチドを含む、該タンパク質結合セグメント
を含むDNA標的化RNA
を含む複合体であり、
該細胞は、植物細胞、動物細胞または単細胞真核生物であり、
該細胞は、インビボのヒト細胞ではなく、ヒト生殖細胞ではなく、およびヒト胚細胞ではなく、
該修飾は標的DNAの切断である、
前記標的DNAを修飾する方法。
<参考図>
【図1】
争点
1.本件発明の優先日
2.取消事由1(拡大先願・甲1)
3.取消事由2(拡大先願・甲2)
以下、争点1に関する事項を記載する。
判旨
<規範>
本件発明について、第1優先基礎出願に基づくパリ条約による優先権の主張が認められるかどうかは、特許請求の範囲だけではなく、実質的にみて第1出願書類の明細書を含む出願書類全体に記載されていると認められる事項に基づき判断すべきものである。仮に本件発明が第1出願書類全体の記載に本件優先日当時の当業者の技術常識を組み合わせたとしても当業者において実施することができなかった発明であると認められる場合は、本件発明は、第1出願書類の全体に記載されていた事項であるとは認められず、パリ条約による優先権の主張の効果は認められないというべきである。したがって、本件発明が、実質的に第1出願書類の全体に記載されていると認められるためには、当業者が第1出願書類の全体の記載及び本件優先日当時の技術常識に基づいて、過度の試行錯誤等を要さずに本件発明を実施することができたと認められる必要がある。
<あてはめ>
・本件発明は、侵入する外来DNAを切断する原核生物の免疫システム(CRISPR/Cas9 システム)を利用し、DNA標的化RNA及び Cas9 ポリペプチドからなる複合体を真核生物細胞内の標的DNAに接触させることにより、標的DNAを切断する方法等の発明である。
・第1出願書類に開示された発明は、細胞及び生物全体の遺伝子操作のため特定のDNA配列を標的とするように設計・操作されたヌクレアーゼを用いる方法である従来技術に代えて、各新規な標的配列ごとに新規なタンパク質(ヌクレアーゼ)の設計を要することなく、標的DNAへのヌクレアーゼ活性の正確な標的化を可能にするという課題を解決する技術を提供するものである。そして、課題解決手段として、「標的DNA」を、「DNA標的化RNA」及び「部位特異的修飾ポリペプチド」を含む複合体と接触させることにより、標的DNAを部位特異的に修飾するという技術が開示されている。さらに、当該技術に関し、「標的DNA」が真核細胞の細胞内染色体であり得ること等が開示されている。そして、実施例においては、実施例1では、3つの異なる標的DNA(A~C)に、DNA標的RNA(DNA標的化セグメントとタンパク質結合セグメントを含むもの)と部位特異的修飾ポリペプチド(S.pyogenes由来のCas9 ポリペプチド)を緩衝液中で複合体としたものを添加したところ、標的DNAを部位特異的に切断することができたこと(図3)、実施例2では、共通の標的DNAに、由来の異なるCas9 ポリペプチド及び共通のDNA標的化RNA(DNA標的化セグメントとタンパク質結合セグメントを含むもの)を添加したところ、いずれも標的DNAの切断が示されたこと(図5)が、それぞれ実験結果に基づいて記載されている。このように、第1出願書類には、標的DNAを部位特異的に修飾するCRISPR/Cas9 システム(DNA標的化RNAと部位特異的修飾ポリペプチドの複合体)の構成と各構成要素の構造や作用、標的DNAの切断(二本鎖切断)に至る機序・仕組みについて具体的に記載されている。また、実施例により、複合体を作成し標的DNAを切断することができることも具体的に示されている。
・また、第1出願書類では、CRISPR/Cas9(DNA標的化RNAと部位特異的修飾ポリペプチド)を細胞内に導入する方法として、これらをコードするヌクレオチドを含む任意の発現ベクターを、公知の方法(感染、リポフェクション、エレクトロポレーション等)で細胞に導入することができること、これらをRNAとして、周知の技術(マイクロインジェクション、エレクトロポレーション等)で細胞に導入することができること、Cas9ポリペプチドは、必要に応じて生成物の溶解性を増大させるポリペプチドドメインを融合させたり、浸透性ドメインに融合させたりして、細胞による取り込みを促進してもよいことなど、発現ベクターやRNA、ポリペプチド等を細胞に導入する周知の技術的手段を使用することができることが、それぞれ具体的に記載されている。このように、第1出願書類においては、標的DNAを部位特異的に修飾するCRISPR/Cas9システム(DNA標的化RNAと部位特異的修飾ポリペプチドの複合体)について、これを細胞内に導入する方法等に関し従前からの周知の技術による方法を記載しているのみならず、CRISPR/Cas9 システムの適用対象についても、従来技術の適用対象を踏まえ、真核細胞が言及され、想定されていたということができる。
・以上のとおり、第1出願書類には、遺伝子操作に関する従来技術に代わり得る技術を提供するものとして、標的DNAを部位特異的に修飾するCRISPR/Cas9 システム(DNA標的化RNAと部位特異的修飾ポリペプチドの複合体)の技術が開示され、その構成や、複合体の作成・細胞内への導入の方法(真核細胞に対するものを含む。)、その標的DNAの切断の機序が具体的に記載されている。これらの記載によれば、第1出願書類には、CRISPR/Cas9 システムを真核細胞内の標的DNAに適用するという技術的思想が開示され、本件優先日当時の周知技術と組み合わせれば実施することが可能な程度に本件発明の具体的な説明が記載されていたものと認めるのが相当である。
・本件優先日において、CRISPR/Cas9システムにおけるPAM配列の存在及びその役割(真核細胞内の標的DNA配列を切断するのに必要であること)は当業者の技術常識の範疇に属するものであったと認めるのが相当である。
・本件優先日の時点で、CRISPR/Cas9システムにおいて、NLS及びコドン最適化は、必須の技術ではなかったが、いずれも、多くの文献において実施が報告されており、CRISPR/Cas9システムにも応用可能な周知技術であったと認めるのが相当である。
・本件優先日時点で本件発明者らが実験に成功していなかったというだけで、第1出願書類における本件発明の開示が不十分になるわけではない。第1出願書類の記載に基づき、過度の試行錯誤を要するまでもなく、本件発明を実施することができると認められるのであれば、開示としては十分である。そもそも、生命科学の実験において、実験条件を変えながら最適な条件を見つけることは通常の試行錯誤の過程であると考えられる。原告が指摘するメールの内容等(RNAの分解、構成および複合体の形成と持続性、毒性、複雑な真核生物環境でのクロマチン結合DNAの作用の失敗等)は、いずれも通常の試行錯誤の過程における仮想的な可能性や懸念について意見交換等しているものにすぎず、それだけでは、当業者において、過度の試行錯誤を要するような障壁があったことを認めることは困難である。むしろ、本件発明者らが第1優先基礎出願に係るCRISPR/Cas9 システムを刊行物(乙12・2012年6月28日)に発表した後、2012年10月から2013年1月までの短期間に、多くの研究者により、CRISPR/Cas9 システムを真核細胞に適用しゲノム編集ができたことが報告されたことが認められる。このことは、当業者において、第1出願書類の記載に基づき、過度の試行錯誤を要するまでもなく、本件発明を実施することができたことを示すものである。そうすると、CRISPR/Cas9 システムの真核細胞への適用について、仮に、原告の指摘するような問題点があったとしても、過度の試行錯誤を要するものとはいえない。
・前記のとおり、第1出願書類には、CRISPR/Cas9 システムを真核細胞内の標的DNAに適用するという技術的思想が開示され、本件優先日当時の周知技術と組み合わせれば本件発明を実施することが可能な程度に具体的な記載がされていたと認められる以上、実施例の記載がなくても、なお、本件発明について本件優先日を出願日とする優先権の主張を認めることは妨げられないというべきである。
・以上によれば、本件発明は、第1出願書類全体の記載及び出願時の技術常識に基づき、実質的にみれば開示されていたというべきであり、本件特許に係る分割出願の対象となった国際特許出願がパリ条約4条C⑴の優先期間内にされたものであることは当裁判所に顕著であるから、本件発明は、パリ条約4条A(1)により第1優先基礎出願に基づく優先権主張の利益を享受することができるものと認められる。
解説/検討
バイオ・医薬分野の発明について、少ない実験データに基づいていち早く特許出願(基礎出願)をした後、優先権主張可能期間内に実験データを補充して優先権主張出願を(場合によっては複数回出願)することは、特許実務上よく行われていることである。
本事件は、優先権主張の利益を享受するために、基礎出願の時点での明細書等の記載や実施例として開示する実験データをどのようなものとするべきかの考えを深める上で、参考となる事例である。特許権を取得したい発明について、一部の構成を満たす実験データしか取得できていなくても、その時点での当業者の技術水準(技術常識、周知慣用技術等)に鑑みて、過度の試行錯誤等を要さずに、全ての構成を満たす発明を実施することができると認められるよう、発明の課題および解決手段、発明を実施するための形態などについて適切に、十分に記載した明細書を作成できていれば、そのような段階でなされた基礎出願に基づく優先権主張の利益を享受でき、新規性・進歩性の判断基準時を少しでも早めることのできる可能性があることが判示されている。
当業者の技術水準や、明細書におけるどのような記載・開示内容が「過度の試行錯誤」等を要さずに特許発明を実施することができたと認められるものになるかは、発明の技術分野等によっても変動するであろうから、発明に応じて個別具体的にそれらの事項を検討し、明細書の記載・開示内容を適合させる必要があると考えられる。本件発明は「標的DNAを修飾する方法」や、その方法のために使用される「組成物」、その方法に用いられる核酸および/またはタンパク質を含む「真核細胞生物」のような、基礎的な発明であって、例えば、CRISPR/Cas9システムを利用してヒト等の真核生物における特定の遺伝子疾患を治療するための「医薬組成物」のような、発展的な発明ではない。仮に、本件発明がそのような「医薬組成物」であったならば、優先権の利益を享受するためには、基礎出願の明細書(優先権書類)において遺伝子疾患の治療が実施可能であると認められるよう、生体外であるとしても、その遺伝子疾患が発症するヒトまたはその他の動物の細胞(真核細胞)を用いて、治療効果を推認しうる実験データを実施例として記載する必要があったと考えられる。言い換えれば、細胞を用いない無生物系での実験データだけでは、「医薬組成物」に係る特許発明の基礎出願に記載する実施例として、たとえ当業者の技術水準を考慮したとしても実施可能であったと認定することは難しく、優先権の利益を享受できなかったおそれがある。
本件発明によるCRISPR/Cas9システムは、原核生物(細菌)が元来、侵入してきたウイルス等のDNAを切断して死滅させることのできる防御システムとして有していた核酸分子およびタンパク質を、真核生物(動物、植物等)が有するDNAの所望の塩基配列を標的として、切断により除去したり、必要に応じてその後に他の配列を挿入したりすることにより、所望の塩基配列に改変するためのツールとして応用した、画期的な発明である。そのような発明について、優先権書類中の実施例が、真核生物の細胞系における実験データを含んでおらず、無生物系における実験データだけであっても、発明の詳細な説明の記載に優先日当時の技術常識を組み合わせることによって、真核生物を対象とする本件発明が実施可能であったと認定されたことは、極限的な事例かもしれないが、大変興味深い。
