【化合物名のみが記載された刊行物について、製造方法等が明らかでない場合には引用発明として認定できないとされた事例】

 

投稿日:2026年5月11日

ohno&partners

著者:弁理士 池田 直俊
*本記事は、筆者の個人的見解であり、当事務所を含め、筆者が所属する如何なる団体の見解も表示するものではありません。
*判決等に筆者が適宜下線や太字強調等を付している場合があります。


参照条文/キーワード/論点

特許法29条1項3号/刊行物に記載された発明、引用発明の認定、化合物名

 

ポイント

 本判決は、特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」該当性について、特に化学物質発明においては、刊行物に化合物名又は化学式が記載されているだけでは足りず、当業者が製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の開示が必要であると判示した。

 

判決概要

裁判所 知的財産高等裁判所第1部
判決言渡日 令和6年1月16日
事件番号 令和4年(行ケ)第10097号
事件名 審決取消請求事件
裁判長裁判官
裁判官
裁判官
本多 知成
遠山 敦士
天野 研司
 

判決へのリンク(裁判所HPへ)

事案の概要

1 本件は、発明の名称を「アミノシラン」とする特許第4824823号(以下「本件特許」という)を保有するバーサム マテリアルズ ユーエス,リミティド ライアビリティ カンパニー(以下「被告」という)に対し、ユーピー ケミカル カンパニー リミテッド(以下「原告という」)が無効審判を請求したところ、請求不成立の審決がなされ、本件特許は有効と判断されたため、審決の取消しを求めた事案である。
 本件訴訟では、本件発明である「ジイソプロピルアミノシラン」の化合物名が引用文献(甲1)に記載されていることは認められるものの、その製造方法に関する記載がないことから、特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」として認定できるか否かが問題となった。
 知財高裁は、「刊行物に記載された発明」の認定基準として、「当該刊行物に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその技術的思想を実施し得る程度に、当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。」と示した上で、甲1に記載された「ジイソプロピルアミノシラン」を「刊行物に記載された発明」として認定することはできないと判断し、原告の請求を棄却した。

2 本件発明1
 本件発明1の化合物は、半導体デバイスの製造に用いられる、化学的に不活性な誘電材料の薄い不動態層としての炭窒化ケイ素(SixCyNz)膜を形成するための原料であり、当該化合物を化学気相成長(CVD)法の原料として用いることによりに炭窒化ケイ素膜が形成される。
【請求項1】
画像

【発明が解決しようとする課題】 【0016】  CVD法による一般式SixCyNzの炭窒化ケイ素膜の生成を可能にする液体アミノシランのクラスが見出された。これらのアミノシランは、これまで用いられている幾つかの前駆体とは対照的に、室温及び室圧において液体であり、好都合な取扱いを可能にする。加えて、本発明は、このような膜を生成させるための堆積方法に関する。

3 原告主張の取消事由
 原告は、審決の甲1(特開2000-195801号公報)に基づく新規性・進歩性欠如の判断誤り(取消事由1、2)を主張している。
※審決の甲4(特開平6-132284号公報)に基づく新規性・進歩性欠如に関する判断の誤り(取消事由3、4)も主張されているが、甲1の判断と類似であるため、本稿では甲1に焦点を当てて報告する。

判旨

(1)甲1の記載
 裁判所は、甲1の【0022】に、「甲1には、実質的に『SiH3[N(C3H7)2]』との化学式に対応した化学物質の名称である『ジイソプロピルアミノシラン』が記載されているといえる。」と判断した。
(以下、判旨の抜粋。下線付加。)

【0022】また、Rとしてアルカンを用いたSiH3[NR2]系の原料としては、SiH3[NH2]で示されるアミノシラン、SiH3[NH(CH3)2]で示されるジメチルアミノシラン、SiH3[NH(C2H5)2]で示されるジエチルアミノシラン、SiH3[NH(C3H7)2]で示されるジプロピルアミノシランやジイソプロピルアミノシラン、SiH3[NH(C4H9)2]で示されるジブチルアミノシラン、ジイソブチルアミノシランやジターシャリブチルアミノシランなどを適用することができる。

(2)甲1に記載された「ジイソプロピルアミノシラン」を「刊行物に記載された発明」に認定することの可否
 裁判所は、甲1には「ジイソプロピルアミノシラン」の名称が記載されている点は肯定しつつも、特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」として認定することはできないと判断した。
(以下、判旨の抜粋。下線付加。)

(ア)判断基準
a 特許法29条1項は、同項3号の・・・「刊行物」に物の発明が記載されているというためには、同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていることを要することはいうまでもないが、発明が技術的思想の創作であること(同法2条1項)に鑑みれば、当該刊行物に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその技術的思想を実施し得る程度に、当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。
 特に、少なくとも化学分野の場合、化学物質の化学式や名称を、その製造方法その他の入手方法を見いだせているか否かには関係なく、形式的に表記すること自体可能である場合もあるから、刊行物に化学物質の発明としての技術的思想が開示されているというためには、一般に、当該化学物質の構成が開示されていることに止まらず、その製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載があることを要するというべきである。また、刊行物に製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載がない場合には、当該刊行物に接した当業者が、 思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要であるというべきである。
b 以上を前提として検討するに、上記イ(エ)のとおり、甲1には、実質的に「SiH3[N(C3H7)2]」との化学式に対応した化学物質の名称である「ジイソプロピルアミノシラン」が記載されているといえるものの、甲1によってもその製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載は見当たらない。
 したがって、甲1に記載された発明の化学物質として「ジイソプロピルアミノシラン」を認定するためには、甲1に接した本件優先日前の当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、本件優先日前の技術常識に基づいて、「ジイソプロピルアミノシラン」の製造方法その他の入手方法を見いだすことができたといえることが必要である。

(イ)「ジイソプロピルアミノシラン」の製造方法その他の入手方法に関する技術常識の検討
a 原告が本件審判で本件優先日前のアミノシランを製造する方法に関する技術常識の根拠として提示をした甲12及び甲16には、それぞれ以下の記載がある
(a)甲12の記載事項
・・・
(b)甲16の記載事項
・・・
b そして、甲12及び甲16の上記各記載事項によると、ジメチルアミノシランやジエチルアミノシランが、ジメチルアミンやジエチルアミンと、ヨードシランやクロロシランの反応により製造できること、当該反応は気相中、室温下で進行することについては、本件優先日前の技術常識であったといえる。他方、「ジイソプロピルアミノシラン」の製造方法が本件特許の優先日前に知られていたことを認めるに足りる証拠はない。
c また、原告は「アルキル基の嵩高さによる立体障害の存在により、反応が進行しにくくなることはあっても、反応そのものが進行しないわけではなく、反応速度や反応生成物の収率の問題が生ずる程度である」と主張するが、原告作成の甲218(36頁)によっても「立体障害とは、Rが嵩高いことで、SiとNの間の結合が邪魔されて、反応が進行しにくくなること」と説明されているように、一般に、化学反応の進行のしやすさは、分子の立体障害の違いにより変わることが知られているところ、原告が本件優先日当時のアミノシラン類の合成に係る技術常識を示すものとして提出する甲202においても、「ジイソプロピルアミノシラン」の合成方法に関する文献の記載がないことに加え、甲202に挙げられている合成方法に関する文献が記載されたアミノシラン類の7つの化合物(ジメチルアミノシラン、ジエチルアミノシラン、ジフェニルアミノシラン、1-アゼチジニルシラン、1-ピロリジニルシラン、1-ピロリルシラン、1-ピペリジニルシラン)の合成方法や条件を比較しても化合物によって合成の反応条件が異なることからも、仮に反応式が一般化できたとしても、当業者にとって、その下位概念に含まれる化合物の合成方法が直ちに理解できるとか、又は技術常識であったとまでは認められない。
d そうすると、本件優先日前において、甲12及び甲16に記載されるように、メチルアミノシランやジエチルアミノシランが、ジメチルアミンやジエチルアミンと、ヨードシランやクロロシランの反応により製造できることは技術常識であったとしても、ジイソプロピルアミノシランを製造できることまでは知られていなかったものといえる。
e ・・・
そして、このほか、本件優先日前の当業者が、ジイソプロピルアミノシランの製造方法その他の入手方法を容易に見いだすことができたと認めるべき事情はうかがわれない。

(ウ)小括
 以上によると、甲1に接した本件優先日前の当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、本件優先日前の技術常識に基づいて、ジイソプロピルアミノシランの製造方法その他の入手方法を見いだすことができたとはいえない。この点、原告は甲12及び甲16の記載に基づく実験結果(甲30、31、212、216)をもって、本件優先日当時、ジイソプロピルアミノシランが製造できたと主張する。しかし、そもそもこれらの実験は、本件優先日後に事後的に行われたものである上に、これらの実験結果についてみると、甲30や甲212に記載された沸点はジイソプロピルアミノシランの沸点と一致せず、甲216には、それらの記載の沸点が誤記であることの説明がされているものの、誤記の合理的な説明がされていないこと、甲31の実験は液相反応であって甲16の実験の条件である気相反応を満たしていないことなどの疑義があり、その信用性に疑問があるほか、これらの具体的な実験内容によっても、当業者が思考や試行錯誤等の能力を発揮するまでもなく、製造方法その他の入手方法を見いだすことができたと評価できるものではなく、原告の上記主張は採用できない。
 したがって、甲1に記載された発明の化学物質として「ジイソプロピルアミノシラン」を、特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」と認定することはできない
 よって、甲1に記載された発明として「ジイソプロピルアミノシラン」が記載されていることを前提とする原告の主張はいずれも理由がない。

(3)甲1に基づく判断について
エ 本件審決が認定した甲1発明・・・について
(ア)本件審決は、甲1に記載された発明として、次の発明を認定している。
甲1発明
Rとしてアルカンを用いたSiH3[NR2]系の有機アミノシラン。」
・・・
(イ)甲1(【0008】~【0010】、【0022】)によると、・・・、有機アミノシラン系の原料として、Rとしてアルカンを用いたSiH3[NR2]系の原料が記載されていることが、また、SiH3[NR2]系の有機アミノシランは、甲12や甲16に記載の技術常識から、その一例であるジメチルアミノシランやジエチルアミノシランの製造方法を見いだすことができたことが認められる
 以上によると、本件審決における甲1発明・・・の認定内容に誤りがあるとはいえない。
 また、甲1発明・・・は、・・・「刊行物に製造方法その他の入手方法を理解し得る程度の記載がない場合には、当該刊行物に接した当業者が、思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく、特許出願時の技術常識に基づいてその製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要であるというべきである。」との前提において、刊行物に記載された発明としての内容を把握すべきものといえるから、一見すると、甲1発明・・・の有機アミノシランに包含されるような化合物であっても、上記前提を満たさないものについては、刊行物に記載された発明としての甲1発明・・・の有機アミノシランには包含されないものと解される。
・・・
(2)本件審決の甲1に基づく新規性・進歩性欠如に関する判断について
ア 本件発明1
(ア)前記第2の2及び上記(1)エに基づき本件発明1と甲1発明とを対比すると、両発明の化学物質に関し、本件発明1は【化1】の式により示されるアミノシランであるのに対し、甲1発明は「Rとしてアルカンを用いたSiH3[NR2]系の有機アミノシラン。」であり、「「SiH3[N(C3H7)2]」で示されるジイソプロピルアミノシラン」を包含していない点において相違している(相違点1)
(イ)そして、以下a~cのとおり、甲1発明を基にして検討し、本件発明1の上記相違点1に係る構成を、本件優先日前に当業者が容易になし得たものとはいえない。
a 上記(1)ウ(イ)で検討したように、本件優先日前にジメチルアミノシランやジエチルアミノシランが製造できることは知られていても、ジイソプロピルアミノシランを製造・入手できることまでは知られていなかったといえ、通常の創作能力を有する当業者であっても、本件優先日前に本件発明1のジイソプロピルアミノシランを得ることが容易であったとはいえない。
b 甲1発明に対し、置換基を構成する炭化水素基の大きさが大きい(炭素数の大きい)有機置換基を導入したものの方が、より安定するといったアミノシラン類の安定性に関する当業者の技術常識(甲202)を勘案した場合でも、本件発明1に記載されている「ジイソプロピルアミノシラン」が、本件明細書【0023】に記載される「従来の取扱い及び処理条件下において安定性を提供する」ことまでは予測できるといえるものの、それと同時に、本件明細書【0072】【0073】に要約されるように炭窒化ケイ素誘電膜を比較的低温で形成できるような反応性の高さを兼ね備えるという、安定性とは相反するような性質をも両立させられる効果までは、予測できたものとはいえない。そうすると、仮に、本件優先日前にジエチルアミノシランを製造・入手できる技術常識が存在していたとしても、予測できない効果を奏する本件発明1のジイソプロピルアミノシランを得ることが容易であったとはいえない
c ・・・
(ウ)なお、仮に、甲1の請求項1に記載された「SiH4又はSi2H6と、SiH4又はSi2H6の水素基の一部をアミノ基で置換した有機アミノシラン系の原料」の中から、本件特許の優先日前の技術常識として製造できることが知られていた「ジメチルアミノシラン」や「ジエチルアミノシラン」等の具体的な化合物を選択し、甲1発明・・・に代えて用いる別の引用発明を認定した場合を考えても、上記(イ)と同様に、当該別の引用発明からも、本件発明1の当審で認定した相違点1に係る構成を本件優先日前に当業者が容易になし得たものとはいえない。
(エ)したがって、本件発明1は、甲1に記載された発明ではなく、甲1に記載された発明・・・に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものでもない。・・・

解説/検討

 本件では、「刊行物に記載された発明」の認定の判断基準が示され、引用発明の認定において参考になる。
 なお、審査基準では、刊行物に記載された発明に関し、以下の判断基準が示されている。
(以下、経済産業省 特許庁「特許・実用新案審査基準」抜粋。下線付加。)

3.1.1 頒布された刊行物に記載された発明(第29条第1項第3号)
・・・
(1)刊行物に記載された発明
・・・
b 審査官は、刊行物に記載されている事項及び記載されているに等しい事項から当業者が把握することができる発明であっても以下の(i)又は(ii)の場合は、その刊行物に記載されたその発明を「引用発明」とすることができない。
(i)物の発明については、刊行物の記載及び本願の出願時の技術常識に基づいて、当業者がその物を作れることが明らかでない場合
(ii)方法の発明については、刊行物の記載及び本願の出願時の技術常識に基づいて、当業者がその方法を使用できることが明らかでない場合
 

 

PAGE TOP